「世界はすでに破綻しているのか」 高城 剛著

2014年に書かれた本書は国の経済破綻の例を次々と挙げて、その様子をまざまざと伝える。

 

破綻した証券会社の社員が銃を乱射したイギリスのロンドン

郊外に自給自足菜園を持って市民がしのいだ旧ソ連

突然のアジア通貨危機に襲われたタイ

何度も定期的に破綻が発生してきたアルゼンチン

日本と同じような土地とリゾートマンションバブルが弾けたスペイン

ギリシャ

銀行から預金が引き出せなくなったキプロス

ドーナッツの輪のように周囲に白人富裕層、中心に黒人低所得者層の構造になって治安と教員と雇用に深刻な格差のあるアメリカ合衆国デトロイト

 

ニュースで知っていたものもあったり、知らなかったものもあった。知らなかった破綻はその経緯がわかりやすく説明されている。

 

橘玲の国の破綻について述べた本では、日本は破綻しても急激に変わることはないだろうとあったが、本書はそんな悠長なことは否定している。

来る時は一気に来る。

物価が変わってお金の価値がガラッと変わる。

貯金していてもそのものが意味がなくなる。

しかも自分の預かり知らぬところで。

これはキツイ。

 

国の破綻に対する姿勢、ひいては人生の危機に対しての基本的な対処については、著者の最後の言葉に集約されている。

 

「常に自分を見失わず、自分なりの『異変』を感じたら、誰に何と言われようが、即座に変わり身すること。大きな社会変化が差し迫った時代の中で、生き延びる秘訣はそれに尽きると、僕は思っている。」

勝ち逃げ社会

他の人だけが得をするのは耐えられない。

自分だけは損をしたくない。

むしろ、他の人の損を望み、自分だけが得している状況に身を置いていたい。

自分だけが笑っていたい。

 

これが今の社会の底でうねっている、多くの人たちの気持ちではないだろうか。

 

だから、自己啓発本をむさぼり読む。

だから、AIに仕事を奪われるんじゃないかと恐れる。

だから、投資の本を読んで投資をする。

 

他が笑って自分だけがババをひいている状態になりたくないという

焦り

そねみ

妬み

 

ある意味、それが燃料となって燃えて前進している社会。

ズルズルと下がっていく経済や少子化による年金システムの破綻の不安が浸透していく社会。

不安を煽ることで成立している社会。

そんな気持ちにつけこむようなキーワードが散りばめられた本が売れていく。

 

自分をアップデートすれば良い。

複数のスキルを持てば良い。

メインの仕事以外に副業を持てば安心。

人生100歳時代が来るので、一生現役で働けば良い。

プライベートと仕事を分ける必要なんてない。

休みなんていらない。

こうすれば「勝てる」。

お金に稼いでもらう。

 

だけど、そもそもそんな勝ち逃げ社会を成立させている「競争」から降りる発想はないのだろうか?

 

ある。

実は昔から存在する。

 

ひとつは仏教や禅。

悟りを開いて涅槃の境地に達すれば、そこは三昧の世界。

瞑想し、内省し、宇宙レベルに意識を上げていけば到達する世界。

この上なく気持ちいいという。

 

ひとつは反物質主義のヒッピー文化。

コミュニティの大切さや経済の競争の無益さを説くLove&Peace。

自給自足やバックミンスター・フラー宇宙船地球号の思想もある。

 

ひとつは経済社会の中に身を置きながらも、生活をミニマルにしていくミニマリズム

自給自足やDIYでかかるお金はどんどん少なくなり、モノに意識が持っていかれることもない。研ぎ澄まされる意識で問題が即座に解決する。

 

年末年始で読んだ本たちはそんな類のものだった。

 

 

自給自足

DIY

少欲知足

 

このテーマには周期的に魅了される。

もう10年以上も行きつ戻りつしてきている。

現実世界の中で競争を煽るものに囲まれたり、プレッシャーをかけられると、自分の意識の原点を磨き上げるように、座標を確認するように本を読む。

読む度にくだらないゲームからは降りろと囁かれる。

 

 

 

「そういうものだろ、仕事っていうのは」 重松 清, 野中 柊 , 石田 衣良, 大崎 善生, その他著

複数の作家の仕事にまつわる短編集です。重松清石田衣良というそうそうたる面々。

出版されたのは2011年の2月。いずれの作家も油の乗っている時期です。東日本大震災の直前でもあります。
銀行員のうつ病の描写が緻密な盛田隆二の「きみがつらいのは、まだあきらめていないから」。

そこそこの日常から休みを取ってやってきた沖縄のゲストで出会う面々から仕事の意味を捉え直す石田衣良「ハート・オブ・ゴールド」。

OLの視点から会社の日常を切り取って標本のように見せる津村記久子の「職場の作法」。


仕事にまつわる印象的な作品群の中でもっとも地に足が着いた状態で話をつむいでいるのが 一番最初の重松清の著作「ホームにて、蕎麦。」です。

本書のタイトルの「仕事ってそういうものだろ」はこの一番最初の重松清の著作の中の台詞から取られています。

(以下、あらすじです)

建設会社の土木から営業畑を歩んできた主人公の父親は60歳の定年を迎えて突然立ち食い蕎麦屋のチェーン店でアルバイトとして働きはじめることを宣言する。そのまま嘱託として勤める選択肢があるにも関わらず立ち食い蕎麦チェーン店に勤めたいと押し切る父親に困惑する家族。
それから5年経過して元気に着実に勤めつづける父。一方、主人公である息子は人生の斜陽期に入っていた。
マンションを買った地域は不景気の関係から開発が打ち切られ、荒廃してきている。
会社では有能な後輩が上司になる。焦燥感から仕事を抱えて休日出勤を重ねる。
バブル世代最後の就職組として負けが確定している同世代。
子供は中学受験が失敗してノビノビしていない。
折しも父の勤務先が息子の最寄り駅の立ち食い蕎麦チェーン店に変わった。
複雑な思いで受け止める息子。なぜならばそこの宅地開発の営業を担当したのは当の父親だったからだ。
屈託なく「蕎麦を食べに来い」という父に仕事の忙しさを理由に行かない息子。
ある日、父親のことらしき人物について記された新聞記事を目にして、初めて息子はその店に足を向けるのだった。

 

出世競争に敗れた中年期の男、中学受験に失敗した息子と他の重松清の作品にも登場する要素が盛り込まれた上に、男と仕事、男と家族、父親と息子の関係を引いた視線で丹念に描かれています。
最後に少しの問いを残しながら終わることで独特の読後感を残します。
それは例えるならば風邪で寝込んでしまい、予定もやらなくてはいかなかったこともすべて吹っ飛んでしまった布団の中での中で感じるある種のけだるさと 達観とでもいうような感慨に近いのではないでしょうか。。
人生は続いて行くことはわかっていて、状況は一見具体的なものは何も変わっていないのですが、心持ちが変わることによって重かったものが軽くなるという感覚。
誰にも起こりえる心の動きを巧みに読者に抱かせる。そんなお話です。

 

 

「置かれた場所で咲きなさい」 渡辺和子著

恵まれた人 

著者の渡辺和子氏は昨年2016年の年末に亡くなりました。

そのニュースを見た時にこの著作を読みたくなりました。

それは「2・26事件で殺害された将校の娘」という文字がニュースの見出しにあったからです。

www.huffingtonpost.jp

実はこの著作は書店で何回も平積みになっているのを見ていましたが、その度に手にとっては戻すということを繰り返していた本でした。

気にはなっていた、しかし読むのに踏み出せなかった本です。

なぜか。

それは「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルに対して「果たして本当にそんなことができるのか?」という思いを抱いていたからです。

 

「この著者は若くして大学の学長になっている。人脈に恵まれていたか名家の出だからではないか」

「みんながみんな、出自や状況や環境に恵まれているわけではない」

「現に自分の働いている環境はイマイチで気が滅入るし上司は理不尽だ」

「自分の置かれた場所で才能の花を咲かせることができるのは限られた人ではないか」

「それなのにみんなが花を咲かせることを勧めているこの本は、恵まれてきた著者の上から目線や現実離れな視点で語られているのではないか」

 

読了した今となっては、そんな狭い了見と先入観で判断して読んでいなかった自分を恥ずかしく感じるばかりです。

しかし、その当時は自分の置かれた職場の環境の恵まれなさ、上司の能力のなさと責任の取らなさ、白だと言われていたものが何食わぬ顔で黒に変えてくる理不尽さに義憤を感じていました。どうしようもできない大きな流れの中にいる自分、転職しようとして動いてもうまくいかない、といったことによって自信もなくなり感情が溺れかけていた状態でした。新しいものを受け入れる余裕がなかったのかもしれません。

その後、少しずつ気持ちが上向いてきた中で後述する悲しい出来事ががあり、また気持ちが沈み始めたところへの著者の訃報と「2・26事件で殺害された将校の娘」という見出しはインパクトがありました。勝手に恵まれていたと思っていた著者が実は違っていたのではないかと考え、本書を読み始めるきっかけになったのです。

 

40代で鬱になった人

順風満帆に見えた著者の人生は実は平坦なものではありませんでした。

幼少時代は幸せに暮らしていましたが、2.26事件のクーデターにより9歳で目の前で父親を斬り殺されるのを目撃してしまいます。彼女は父親がとっさに隠したのでことなきを得ました。

生き残った者ゆえの複雑な思いがあったのは想像に難くありません。

しかし、著者は父の愛情の最たるものを感じたと記すに留めています。

この強さ。

詳しくは語られていませんが、父親の死後の生活の苦労はいかほどだったでしょう。父親の死が直接関係しているかはわかりませんが、大学在学中にキリスト教洗礼を受けます。

そして、教会からの指令でわけもわからず20代にアメリカに留学し、博士号を取得します。慣れない現地での生活、派遣されているというプレッシャー。

その中で触れる人々の暖かさに救われます。

30代で帰国命令が出て戻ると、いきなり大学学長への任命が待っていました。辞退しても避けられません。他の年上の教員達のやっかみや妬みは相当なものだったようで、廊下ですれ違っても挨拶もされない日々が続きます。

そして、責任、孤立、重圧によってとうとう40代に鬱病を患ってしまいます。

数年間、動くに動けない状態が続きました。

しかし、すべては自分の視点をずらすことで解決したり、困難に感じているものを和らげたりできること、敵対ではなく微笑みと友愛が育むもの、自分を強く持つことについて気づいたこと、これらはこの鬱病があってのことだと言います。

 

命の灯火が消えた人

文中では様々な学生との交流が描かれます。

総じて敬虔なクリスチャンで利発な女子学生に恵まれている様子も描かれていますが、良いことや楽しいことばかりではありません。

中には思い悩んだ末に自殺をしてしまう学生もいました。

その時に著者はショックを受け、落ち込みます。

そして彼女が生きられなかった分まで生きて人生を謳歌し、周りと交わっていこうと他の学生達に呼びかけます。

 

個人的な話ですが、このくだりで私はとても救われました。

実は私も昨年末12月に関わりのあった若者が突然自殺するという事態に遭いました。

彼と会話をするのは年に2回くらいだったのですが、読むと良い本、見ると良い映画について教えて欲しいというのに対して、感動した作品について話をしたりしました。話が弾むとおとなしめの彼が少し元気になって帰っていきました。

最後に会ったのは自殺する2ヶ月半前で、その時は不眠とモチベーションの上がらなさを訴えていました。いつもの「どんな本や映画を読んだり見たりしたらいいでしょうか?」という質問があったかどうかは、実はよく覚えていません。

ただ、私は「そんなに焦らなくていいよ」と答えた記憶はあります。彼の状況を慮って出た言葉ですが、彼がどう受け取ったのかはわかりません。

自殺する直前に会うことはなかったので、その兆候はわかりませんでした。それは他の人達も同じでまったくわかりませんでした。

 

でも、もしかしたら彼が何かのSOSを発していたのではないか。

あの時に何か本や映画を勧めていれば違う結果になったのではないか。

 

考えまいとしても、年末に折りに触れてそういう風な考えにとらわれてしまう時間がありました。そんな自分にとって、本書の言葉はひとつの道筋を示してくれたように感じます。

 

不自由な身体を持った人 

晩年の著者は身体の不調を抱えながら懸命に仕事を続けます。

老いを避けることはできません。

歩く速度が遅くなって、背中が痛くなって他人に迷惑をかけていることがわかっているけど、懸命に日々の仕事をこなし、働きます。

周りの人に助けられながら、微笑みを絶やさずに。

それは自分の信念に従って生きるためで、人と交わって影響を与えたり与えられたりして命を全うするためです。

ものすごいエネルギーです。

 

自分が苦しんだら、その分だけ人の苦しみがわかる人間になれる。優しくなれる。

人生は完璧で恵まれた環境ばかりに身を置くわけではない。

しかし、笑顔を持って視点を変えながら応じると、その場所でできることをやって進むことができる。

咲くことができる。

 

著者は本書だけでなくその身を持って生きながら、このことを周りに伝えて行ったのでしょう。

 

つつしんで渡辺和子氏のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

第1章:自分自身に語りかける
第2章:明日に向って生きる
第3章:美しく老いる
第4章:愛するという事